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【体験談】高速道路で事故る。居眠り運転は他人事ではなかった。

time 2019/02/04

【体験談】高速道路で事故る。居眠り運転は他人事ではなかった。

会社から帰宅途中の23時頃、自宅マンション近くの道路で、車両事故を起こしてJAFのお世話になっているサンダル短パン姿の男性を見かけた。

JAF隊員が作業をしている傍ら、携帯を片手になんとも惨めな姿であった。

 

あの惨めさは私も経験がある。

今から約9年前の2009年11月のとある日の朝、私は首都高6号向島線で居眠り単独事故を起こし、JAFに大変お世話になった。

その体験談を記す。

 

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事故前の状況

 

私はその日、一人で引っ越し作業をしていた。

深夜0時過ぎ、新横浜のアパートから池尻大橋のマンションまで、埼玉の実家から借りてきたセダン(トヨタのプログレ)でダンボール箱5~6個ほどを運んでいた。

 

明け方作業が終わると、重労働をしてテンションが高まっていたこともあり、そのまま一睡もせず埼玉の実家まで車を返しに行くことにした。

 

渋谷から高速に乗る。朝日がまぶしい。

この時、作業を終えた達成感とこれから始まる新生活への期待が相俟って、ウットリしながらハンドルを握っていたと思う。

この時点で、眠気は一切なくむしろ爽快な位で、まさかこの数十分後にクラッシュをすることになるとは夢にも思わなかった。

 

事故直前

 

都心環状線を抜け6号向島線に入る。

ここからはしばらく、ほとんどハンドル操作を必要としない直線に近い道程が続く。

 

11月の早朝は肌寒く、窓を締め切り暖房をつけていたため、車内はムンムンしていた。

今思えば、このとき窓を少し開けていれば、あの事故を避けられたかもしれない。

 

カーステレオから中島みゆきのベスト盤がかすかな音で流れていた。

 

やがて頭がボーッとなり、瞼を開けているのが辛くなってきた。

気を抜くとカクンと頭の力が抜けてしまう。

その度にフッと気合を入れ直すものの、数分後にはまたカクンとなってしまう。

これを何度も繰り返した。

 

事故の瞬間

 

何度目かのカクンの後、その瞬間がきた。

 

「ガンッガガガガッ」

左の壁にぶつかり、その反動で右のガードレールに当たりにいく途中で、目が覚めた。

一瞬、目の前の現実が認識できない。

 

右のガードレールにもぶつかり

「うっ・・・」

と、声にならないうめき声を上げる。

 

また左車線に戻ってきたところで、ハンドルが効かなくなった。

車軸が曲がってしまい、前に進めない。

「やっちゃったよ・・・」

 

バックミラーを見ると、中型トラックが50メートル程後方をゆったり走っていた。

事故の数分前から私は蛇行運転をしていたのだろう。

そのおかげで、後ろの車は十分に車間距離を空けていたようだった。

 

事故直後の対応

 

ハザードをつけて車から出る。

幸い早朝の下り線は交通量が少なかった。

 

初めてのことなので要領が分からない。

とりあえず高速の脇でよく見るあの緊急用電話を探そうと思った。

 

二次災害が起きないとも限らないのでひたすら走る。

私の右側を何台もの車が走り抜けていく。

車内からは、左の路肩を必死で走る私の惨めな後ろ姿が見えていたはずである。

 

100メートル程先にあの電話があった。

後方の事故現場を振り返りながら受話器を外し、緊急連絡先にかける。

 

「どうしましたか?」

と聞かれ、事故を起こした旨と状況や場所を伝える。

すると

「車に戻って発煙筒や三角表示板を設置できませんか?」

と言われ困ってしまった。

高速道路上で事故後に車外ではねられた事例を、何度かニュースなどで見聞きしていた。

 

「すいません・・・ちょっときついです」

「わかりました。それでは間もなく担当者をそちらに向かわせます」

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JAF登場

 

結局、車には戻らずに事故現場から100mほど離れた場所からハラハラしながら応援が来るのを待っていた。

もしあそこで玉突き事故など起こったら、私の責任はどうなるのだろう。

気が気でなかった。

 

数十分後、JAFのレッカー車らしき車が遠くからやってくるのが見えた。

応援を得て気が大きくなった私は、今度は恐れることなく事故現場へ走って戻った。

まさに地獄に仏であった。

 

応援のJAF隊員は一人。

今となってはほとんど顔を覚えていないが、30歳前後くらいの気のいい頼りがいのあるお兄さんだった。

 

最初に何を話したか覚えていない。

ただひたすら「すいません」「ありがとうございます」

と頭を下げまくっていたと思う。

 

彼は私を横目に、馴れた様子で発煙筒やら三角表示板やらの安全対策を施していった。

それから、動かなくなった前輪を浮かせてレッカー車に連結させていた。

一連の作業の間、私はレッカー車の助手席で待っているように言われた。

 

レッカー車の中

 

助手席に乗り込み「はぁ・・・」とため息をつく。

まさか今日こんな事態になるとは、人生何が起こるか分からない。

 

実家の母親に連絡すると

・やってしまったものは仕方がない。

・生きていただけ不幸中の幸い

といった反応だった。本当に申し訳ない。

 

JAFの隊員が作業を終え運転席に戻ってくると、改めて落ち着いて話をした。

確かこのとき名刺をもらっている。

この車をどこへ運ぶかという話になり、母親がすでに連絡をとってくれていたトヨタディーラーの住所を伝える。

事故現場の浅草からは40km近く離れた場所だった。

 

高速を降り、下道をのんびりと男二人でおしゃべりしながらドライブすることになった。

 

無事生還そして別れ

 

40kmの道程があっという間に思えるほど話が盛り上がった。

会話の内容は今ではほとんど忘れてしまったが、一つだけその時強く感じたことを今でもハッキリ憶えている。

「こういう人助けになる仕事っていいな」

収入はもしかするとあまり良くないかもしれない。

ただ、やりがいと安定のレベルは普通の仕事に比べて相当高いのではないだろうか。

 

トヨタディーラーに事故車両を届けたあと、自宅まで送ってもらった。

短いドライブの間ですっかり打ち解けた私達だったが、ついに別れのときが来た。

もう二度と会うことはないだろうがお元気で。

別れ際、深々と頭を下げた。

本当にJAFのおかげで助かった。ありがとう。

料金は確か2万もいかなかったはずである。

 

実家はこの事故の数ヶ月後に新車を購入した。

廃車となった車はその時点で9年物だったこともあり、もともと買い替えの時期でもあった。

そう考えるとこの事故は、安いコストで良い経験をさせてもらったとも言えた。

 

居眠り運転は他人事ではない。

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